【復旧対応1】
今回の被災で,**小学校では清掃が最優先課題であった。避難所解除後,すぐに教室の清掃に取りかかった。断水の状態からの校舎の清掃は困難を極めた。しかし,清掃することで児童の登校が可能になり,早めに学校再開ができた。
(C小学校)
【復旧対応2】
**地区は,電気供給が早く回復し,長くかかるかもしれないと噂された水道も他市町村よりはずっと早く回復した。ガスはプロパンであったが,業者が忙しくなかなか点検し修理してもらえなかった。
電話線修理は結構面倒だった。回線が海水で濡れたことなどから腐食していた。修理されても最初3月18日からは新しい番号で,次はFAX回線の電話番号だった。
そして,漸く,本来の電話番号が使えるようになったのは,4月1日だった。だから,3月中はFAXは使えず,電話は番号が変わったりして大変だった。結局,インターネットのランケーブルは4月からの修理だった。 (C小学校)
【復旧対応3】
津波による被害は,がれきの山をいたる所に築き,家庭のがれきとともに道路の歩道や車道を埋め尽くしていた。電柱の傾きや樹木の倒木など道路を塞ぎ自転車通行もままならず,また,道路の陥没,落差,歪みなど多く見られた。
幹線道路から細い道路までがれき等が撤去されるまで相当の時間を要したし,家庭ごとの都合でがれき等を道路脇に出すので,1回の撤去のみならず,数回の撤去で漸くがれきが生活圏の範囲の中から消えていった。その間,通学路での通行には注意すべきことがたくさんあり,迂回コースもつくられた。 (C小学校)
【復旧対応4】
**小では,eメール発信を普段はパソコンから行っていたが,震災前に携帯電話からも発信できるようにしていたので,震災の時に電話やインターネットが使えない時に,携帯電話からeメールを発信して,児童の安否確認・連絡等に携帯電話を利用した。急を要するこのような時には,eメールの威力は大きい。 (C小学校)
【復旧対応5】
津波が襲来した**小は,早めの避難解除になり避難された方々は市内中心部の避難所に3月14日に移動した。その後,すぐに校内清掃が始まった。避難者は,体育館から校舎に土足で避難した後だったので,汚れはすさまじかった。
教室以上に廊下や階段,トイレはすさまじい汚れ。学校がこんなに汚れていいものかなと避難所開設中は悲しくなった。余裕があったなら,靴を脱いで校舎に入れさせたかったが・・・。校舎に急いで避難させたので,津波に濡れないで済んだのは一番の幸運だ。
避難所解除後,**小から大量の掃除道具と先生方の支援で**小の先生方の掃除に協力をいただき,元気づけられた。体育館を除いて3月中に校舎の清掃はほぼ完了し,4月初めに体育館がきれいになり,児童が登校できる体制は一応整った。残るところは校庭と校地内となった。
校地内には250台くらいの車が残っていて,次第に引き取っていくようになった。残った車は校地の片隅に移動し,校庭の泥を業者が片付けた。校舎の周りは地元業者が無償で清掃し,前PTA会長にも二日がかりで片付けてもらった。
後日,*小PTAと*小PTAが庭園や築山などの校地を150人くらいで泥かきしてもらい,校地はほぼきれいになった。市P連のご支援もいただいた。皆様のご支援に深く感謝したい。 (C小学校)
【復旧対応6】
被災当時は,ガソリン不足・物不足などもあり,移動手段が限定されて支援員が少ない状態であった。次第にボランティアが増えてきて,依頼もスムーズになった。被災当時から1か月半はガソリンも物も乏しく,ガソリンや食料の買いだめの人の列は目立ち,協力的な人の動きが見られず,ボランティア確保は難しい状況だった。 (C小学校)
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以上で、「震災~学校現場から」は終了します。
その当時は本当に地獄でした。阿鼻叫喚でした。
その学校現場の様子を、10年たった今、どこかに残しておきたかったので綴らせていただきました。
お付き合いありがとうございました。
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