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◆教育長室から(震災関係)

教育長室から(震災関係)
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2020/09/25new

震災~学校現場から(4)

| by 教育長

【緊急対応2】


 前任校では,大地震のあと大津波が襲い,高台にある学校だけを残し,周囲はすべて津波の被害を受け,橋や鉄道,住宅はすべて流されてしまった。学校を目指して避難してきた住民と教職員,そして生徒による総勢約500名が体育館に避難し,その日から数十日間避難所生活を送ることになった。道路は寸断され,周囲から孤立した状態となった。避難してきた方々は,ケガを負っている人,家族と連絡がとれず不安がる人,あまりの被害に唖然とし,気力を失ってしまった人などさまざまであった。そんな中で,避難所となった体育館での初期の対応してどのような業務が考えられるのか,以下にまとめてみた。                   (D中学校)

                             

【避難対応】

 午後2時46分。地震発生。地震発生と同時に校内放送のスイッチを入れ,緊急放送をいれた。「地震発生,児童はすぐに・・(ブツっ!)・・・。」発生からわずか10秒で,学校の放送施設は使用不能になった。地震発生から30秒で,立っていられないほどの揺れに増幅した。放送と同時に児童は訓練通り,机の下にもぐり両手で机の脚をしっかりつかみ,踏ん張っていた。1分過ぎても地震は収まるどころか,さらに増幅し,校舎が悲鳴をあげた。児童たちの中には,恐怖に泣き出す子もいた。

 地震発生から2分後,まだ揺れは続いた。結局3分以上揺れてようやく収まった。あたりは,戸棚や本箱から落下したものが散乱した。職員室にいた職員で,校庭と体育館を確認し,校長が2分後には校庭への避難を決定した。放送機器が使えないので,ハンドマイクを片手に中庭から校舎に向かって,避難指示を伝えた。声が聞こえにくい教室には,廊下からハンドマイクで指示を出した。一斉に避難が始まる。折しも外は今にも雪が降り出しそうな空模様だった。

 
 校庭の避難場所に移動し,点呼確認している間に,雪が降り始めた。体育館は,ステージ上の壁板が数カ所落下していた。急いで,落下物を片付け,降りしきる雪の中で子どもたちを体育館に二次避難させることにした。町の防災無線が,「大津波警報発令,沿岸部に6メートルを超える大津波が予想されます。急いで高台に避難してください。」と地域住民に知らせていた。

 学校は,幸い授業中であったが,6校時ということで,1・2年生は半数が帰宅途中だった。途中,中学校や民家に留め置かれ,小学校へ戻ってくる児童もいた。放課後に児童館でお世話になっている1・2年生も合流してきた。直後,防災無線で津波の高さが10メート以上に訂正され,帰宅した子どもたちのことが気になった。

 
 しかし,今は目の前にいる子どもたちの安全を守ることで精一杯だった。後片付けをした体育館の後方に児童を整列させ,保護者への引き渡しが始まった。各担任が名簿をチェックしながら,一人一人引き渡した。

 一方で,地域住民も続々と避難してきたため担任以外の二人の職員で,校庭の駐車場誘導を行った。引き渡し途中ではあったが,並行して体育館の前方にブルーシートを敷き避難してくる人を受け入れたり,座りきれない人のためにパイプいすを用意したり,体育館内でも臨機応変に対応したりした。児童の引き渡しが続く中,沿岸部には津波の第1波が押し寄せていた。(後で知る)壊滅的な被害。津波を目の当たりにした人々も体育館に避難してきた。夕暮れが迫り,体育館にはわずかな懐中電灯のあかりしかなかった。               (E小学校) 

                       

【帰宅者対応】


 沿岸部を大津波が襲った。すでに下校している子や欠席していた子どもの安否が確認できない。児童生徒が下校している学級は電話連絡を開始したが,すぐにはつながらなかった。


 体育館では,子どもたちの引き渡しと地域住民の避難が始まっていた。駐車場整備,誘導,案内,避難所の対応等,訪問して安否を確認する時間も余裕もなかった。

      
 次々に保護者が引き取りに来る中,下校した子どもたちの安否が少しずつ分かってきた。引き渡した子どもの兄弟だったり,近所の子だったりした。引き渡しが一段落してきてから,安否が確認されていな子どもをクラスごとにピックアップし,黒板に掲示して情報を共有した。確認されたら,名前に○を付けた。辺りが暗くなり,電源が確保できないでいたが,懐中電灯やろうそくの明かりを頼りに,安否確認は継続して行われた。沿岸部に住んでいる子どもたちは,家が流され帰る場所が無くなっている子どももいた。

 
 全員の安否が確認できないまま夜が明けた。3月12日(土)は残っていた教職員の中から3つのチームをつくり,学区内を聞いて回ることにした。まだ,津波の傷跡が生々しく,場所によっては立ち入ることのできない地区もあった。それでも可能な限り,近所をまわったり,避難所を回ったりして安否確認を続けた。夕方の時点でまだ,2名の児童の安否が確認できなかった。全員の安否が確認されたのは3月14日(月)の昼過ぎだった。


 最終的には,保護者の方から避難していたことが知らされた。しかし,震災当日に午前中で早退した児童を見落としていた。次の日に再び,安否確認を再開。幸い,その日のうちに確認できた。(E小学校)
                                 


14:42 | 投票する | 投票数(2)
2020/09/17

震災~学校現場から(3)

| by 教育長
【緊急対応1】

  平成23年3月11日午後2時46分。これまでに経験したことのない非常に強い揺れに襲われた。ただただ驚き,恐怖を感じ,とっさに校舎から外へ飛び出すしかなかった。当日は,1.2年生の生徒が卒業式の準備をしていた。3年生はすでに下校。それぞれが自宅に着くか着かないか微妙な時間であった。


 1.2年の生徒は教室と体育館に別れていた。強い地震を感じ,まもなく教師の指示でそれぞれ校庭の中央に避難。2~3分後には,全員無事を確認した。周囲には地域の防災無線のサイレンとともに,大きな津波の恐れがあるという放送が鳴り響いていた。,校庭では点呼している間も強い揺れが続き,全員しゃがみ,とにかく揺れが収まるのを待った。


 そのうち,学校近くの住民が次々に校庭へ避難してきた。しばらくして揺れが収まり,教職員が校舎の点検,体育館の点検そして避難した生徒や住民の掌握と3班に分かれ行動しようとした直後,防災無線の音が途中でとぎれ,学校から数百メートルの海岸線には大きなうねりがみえた。大きな津波が襲ってくることを察し,「裏の高台まで避難してください。」という指示をし,みぞれが降る中,急いで動ける者は崖をよじ登り,お年寄りは学校裏から急いで徒歩で高台に避難した。まもなく,大津波が襲来。津波は堤防を乗り越え,海岸線を走る国道や橋,鉄道や駅を一瞬にして破壊し,学校近くの住宅を飲み込んだ。


 学校のある場所は,海岸線から数百メートルの距離にあり,海が見える30メートルほどの高台にある。学校裏の高台はさらに20メートルの高台にある。周囲は海抜ほぼ0メートルの平地が広がっており,結局大津波は高台にある幼稚園と小学校,そして中学校を除くほぼすべての建物を飲み込んだ。それを,高台に避難した約400人の住民と教職員,そして園児,児童生徒のほとんどが目撃した。結局,大津波は校庭の2~3メートル下まできており,あとわずかで浸水する規模であった。周囲が壊滅状態になり,恐怖と寒さで震える人,家族の安否を心配し泣き出す人などパニック状態の中,教職員の間では,少し前に下校した3年生が心配されたが,大津波の直後に為すすべは何もなかった。


 大津波が襲った後,小中の校長,教頭で相談し,教職員に生徒を使って各地区ごとに住民を集めるよう指示した。生徒は,「○○地区の皆さんはこちらへ集まってください。」と大きな声で住民に呼びかけた。他方,雪が強くなってきた中で住民をこのままにしておくことは危険と考え,体育館の安全確認後,住民を体育館に移動するよう指示した。避難所となった体育館には,かろうじて津波を免れ,ずぶぬれの状態の人やケガを負っている人,意識がもうろうとして担がれている人など野戦状態のようであった。 


 結局,体育館に避難してきた数は約500人。周囲は壊滅状態になり,他地域とは遮断され,孤立状態となった。そこから,飲まず食わずの体育館での数日間が続くことになった。


 今回のような大きな地震と津波がほぼ同時に発生した場合,特に海岸部にある学校は,用意されたマニュアルはまったく機能しない。緊急時に,「命を守る」ために最低限どのように行動すべきかを時系列的にイメージしておくことが肝要であることを学んだ。                                                (C中学校)



08:42 | 投票する | 投票数(2)
2020/09/11

震災~学校現場から(2)

| by 教育長
【事前対応】

 平成23年3月11日午後2時46分,**市の中でも西側に位置する**小学校においては,津波の被害こそはなかったが,大きな揺れが襲い,増築した校舎のつなぎ目の天井が落下し,教室や職員室のロッカーや棚からはランドセル,本などたくさんの物が飛び出して,散乱し,足の踏み場もないような状況となった。


 この日は,1年生から3年生までが5時間授業,4年生から6年生までが6時間授業だったので,授業中の子どももいれば,帰りの会や掃除をしている子どももいた。また,帰ってしまった子どももいた。とにかく,まず放送において,それぞれの子どもたちに机の下に潜ること,落下物に気を付けることを指示し,その後一旦地震がおさまったところで,避難するように緊急放送を行った。

 帰宅してしまったのは2学級だったので,校庭に約1000人の子どもがそれぞれの場所から校庭に集まってきた。各学級,人数確認を行い,帰宅した2学級以外は全員無事であることが確認できた。


 すぐに停電になってしまったので,eメッセージで保護者には連絡することができなかったが,ぞくぞく保護者が子どもを迎えに来た。約1000人全員引き渡しが終わったのは,次の日の朝の6時頃だった。帰宅した児童についても,次の日には安否確認ができた。


 今回の震災を経験して事前対応についても見直さなければならないことは多々あるが,何の連絡をしなくとも,保護者が子どもを迎えに来て,担任がスムーズに引き渡すことができたり,児童がそれぞれの場所から校庭にしっかりと避難できたりしたことは,これまでの引き渡し訓練や休み時間の避難訓練の成果だったと考える。
                            (B小学校)


16:57 | 投票する | 投票数(2)
2020/09/08

震災~学校現場から(1)

| by 教育長


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 ここからは、様々な学校の記録を紹介していきます。
 重複するところもあると思いますが、当時の緊迫した様子を感じ取っていただければ幸いです。なお、現在は、反省を生かし、今の防災に生かされていることを申し添えます。

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【危機管理】
 平成23年3月11日午後2時46分,携帯電話の緊急地震速報が鳴り響くとともに非常に強い揺れに襲われた。校内は,卒業式当日であったため,1・2年生は下校しており,体育館に「卒業生を祝う会」に参加していた,卒業生と保護者,教職員約160名と職員室に職員2名がいた。

 長く続いた揺れが収まりかけた時に,体育館の全員を校庭に避難をさせ,人数や負傷者の有無の確認を行った。

  いつ何が起きるか分からないということは,十分認識しているつもりが,その場の雰囲気から,あのような強い地震にが起こり,多くの人を安全に避難させたり,その後の様々な対応に追われたりという心構えは,その時には,まったくできていなかった。

 携帯電話とラジオにより情報収集をする中で,東北地方から関東にかけて強い揺れが襲い大きな被害が出ていることや大津波警報が出されていることを知った。

 強い揺れの後であったため,生徒と保護者を校舎に戻すことは危険であると判断をし,その場から帰宅させることにした。幸いほとんど生徒は,保護者も学校にいたため一緒に帰宅させることができた。しかし,今から振り返ると,津波が押し寄せるということは想定もせず,帰宅させてしまったことである。

 今後の体制整備に生かしていかなけれなならないことであると考えている。(A中学校)

                                                     
【組織体制】
 平成23年3月11日(金)の震災を体験し,B中学校は避難所として開設した。最大で400名を収容し避難してきた方々と共に生活をした。
 そこで感じたことは,強いリーダーシップを発揮して,次々と物事に対応していくことが非常に大切だと思った。
 それがないとまわりが混乱し問題が大きくなってくると感じた。(B中学校)


 


08:34 | 投票する | 投票数(2)
2020/08/31

学校再開編(その3)

| by 教育長

 8 未履修対応

 
 震災から約1ヶ月後に学校が再開した。その間の未履修をどう埋め合をするかが問題になった。①平日の時程+1~2時間余分に授業をする。②管理規則を変更して夏休みや冬休みを短縮する。 など,とにかく子どもたちの学習に影響がでないように学校は工夫した。
 しかし,体育館が崩壊した学校,プールが使えなくなり水泳ができなくなった学校は,対応するにも限界があった。

 9 見えない恐怖

 東日本大震災は,地震や津波の被害だけではなかった。福島第一原子力発電所のメルトダウンによる放射能汚染もあった。福島原発からでた放射線は,風に乗って宮城県まで到達した。放射線測定器で測ると,普段の数値よりは数倍高かったが,健康には影響はないと言われた。しかし,それをどこまで信じていいものか。初めての経験だけに誰もが,疑心暗鬼となった。

 様々な噂が流れた。給食の牛乳は被爆した牛からつくられているという噂。急に,牛乳を飲む子が減った。修学旅行先が福島県会津地方にしていた学校は,軒並み,岩手県や秋田県の方に変更した。
 放射線は,無色透明,しかも,実態がないだけに,その恐怖は計り知れなかった。

 


 


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