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◆教育長室から(震災関係)

教育長室から(震災関係)
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2021/08/03

東日本大震災 その時とその後

| by 教育長


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 震災関係のデータを整理していましたら、何年か前の原稿が出てきましたので、当時の様子がどのような状況だったのか、皆さんに知ってもらいたく掲載いたしました。自分で書いたものですが、改めて読み返すと、いかにすさまじい状況だったが思い出されました。
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               東日本大震災 その時とその後


Ⅰ はじめに
 東日本大震災時の状況を記したものである。
 これが国内観測史上最大級となるマグニチュード8.8の恐ろしさである。
懐中電灯のあかりしかなかった。
            
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 午後2時46分。地震発生。地震発生と同時に校内放送のスイッチを入れ,緊急放送をいれた。「地震発生,児童はすぐに・・(ブツっ!)・・・。」発生からわずか10秒で,学校の放送施設は使用不能になった。地震発生から30秒で,立っていられないほどの揺れに増幅した。放送と同時に児童は訓練通り,机の下にもぐり両手で机の脚をしっかりつかみ,踏ん張っていた。1分過ぎても地震は収まるどころか,さらに増幅し,校舎が悲鳴をあげた。児童たちの中には,恐怖に泣き出す子もいた。

 地震発生から2分後,まだ揺れは続いた。結局3分以上揺れてようやく収まった。あたりは,戸棚や本箱から落下したものが散乱した。職員室にいた職員で,校庭と体育館を確認し,校長が2分後には校庭への避難を決定した。放送機器が使えないので,ハンドマイクを片手に中庭から校舎に向かって,避難指示を伝えた。声が聞こえにくい教室には,廊下からハンドマイクで指示を出した。一斉に避難が始まる。折しも外は今にも雪が降り出しそうな空模様だった。

 
 校庭の避難場所に移動し,点呼確認している間に,雪が降り始めた。体育館は,ステージ上の壁板が数カ所落下していた。急いで,落下物を片付け,降りしきる雪の中で子どもたちを体育館に二次避難させることにした。町の防災無線が,「大津波警報発令,沿岸部に6メートルを超える大津波が予想されます。急いで高台に避難してください。」と地域住民に知らせていた。

 学校は,幸い授業中であったが,6校時ということで,1・2年生は半数が帰宅途中だった。途中,中学校や民家に留め置かれ,小学校へ戻ってくる児童もいた。放課後に児童館でお世話になっている1・2年生も合流してきた。直後,防災無線で津波の高さが10メート以上に訂正され,帰宅した子どもたちのことが気になった。しかし,今は目の前にいる子どもたちの安全を守ることで精一杯だった。後片付けをした体育館の後方に児童を整列させ,保護者への引き渡しが始まった。各担任が名簿をチェックしながら,一人一人引き渡した。

 一方で,地域住民も続々と避難してきたため担任以外の二人の職員で,校庭の駐車場誘導を行った。引き渡し途中ではあったが,並行して体育館の前方にブルーシートを敷き避難してくる人を受け入れたり,座りきれない人のためにパイプいすを用意したり,体育館内でも臨機応変に対応したりした。児童の引き渡しが続く中,沿岸部には津波の第1波が押し寄せていた。(後で知る)壊滅的な被害。津波を目の当たりにした人々も体育館に避難してきた。夕暮れが迫り,体育館にはわずかな懐中電灯のあかりしかなかった。               ****************************************    

  
Ⅱ 地震直後編
 解決しなければならない問題は,山ほどあった。
 まずしたことは,児童の生徒の安否確認であった。

1 児童生徒の安否確認 
 通信網が切断した中での児童生徒の安否確認は困難をきたした。最後の児童を確認するまで一週間近くかかった学校もあった。東日本大震災時は,津波の被害もあって車が使えず,クラスの子ども,約30名の家を一軒一軒歩いて安否を確認した先生もいた。二次災害のことを考えると,一人よりは複数でと考えるのが普通であるが,学校は避難所となっており,とても人数など避ける状態にはなかった。このような話は,なかなか表には出ない話だと思う。

2 寒さ対策 
 東日本大震災の時は3月で小雪が舞っていた。しかも,津波で体が濡れていた。寒さが身にしみた。ところが,学校に毛布を大量に備蓄している学校はほとんどなかった。暖を取るためのストーブも石油ファンヒーター主流で,電源がなければ全く役に立たなかった。寒さに堪えきれず教室のカーテンや新聞紙をまとって暖を取った人たちもいた。そのため学校からカーテンがすべてなくなった学校もあると聞く。 
    地震は温暖な季節にやってくるとは限らない。避難所となっている学校であれば,常に最悪の事態,つまり厳寒の真冬のことも考えて,毛布や電源を使わないストーブなどを十分以上に用意しておく必要がある。

3 食料対策 
 批判覚悟で記述するが,3日間くらい食べ物を食べなくても人は死なない。しかし,水だけは必要である。その水が,水道管破裂で飲めない。今でこそ学校に水のペットボトルが備蓄されているが,当時はペットボトル1本もなかった。水が有る無しは,生きる上で欠かせないものである。

4 睡眠対策 
 東日本大震災を経験して分かったことがある。人間が衰弱して行く大きな原因は,睡眠にある。食べ物がとれないときではない。寒さで眠れない。他人のペットがうるさくて眠れない。避難所がうるさくて眠れない。などなど。様々な事情で睡眠時間が削られていく。それに比例するかのように,人間は衰弱していく。特に,お年寄りや乳幼児がそうなってしまう確率が高い。
 これも批判覚悟で記述するが,3日間くらい食べ物を食べなくても人は死なない。
しかし,3日間十分に寝れなければ,確実に死につながる。

5 情報伝達 
 災害時は,特に,教育委員会との連絡は密になる。児童生徒の安否,避難者数,被害状況,食糧事情などなど,常に,報告を求められる。しかし,電話は使えない。携帯も使えない。津波で車も使えない。学校から十数キロ離れた教育委員会まで,徒歩また自転車で報告に走った学校もあった。電話や携帯の代わりに,防災無線が支給されていた市町村もあったが「自分のところは大丈夫」ということで,誰一人使い方が分からなかった学校もあった。

6 マスコミ対応 
 時間が経過するごとにマスコミからの取材が多くなる。震災直後は,電話対応ではなく,面談による取材が行われる。多くの時間が費やされる。窓口を一つにしてないと誤った情報が流れてしまう。例えば,死亡者数。一度流れた情報は訂正がきかない。また「~と思う」というような個人の見解を述べない。個人のプラバシーにかかる情報の提供もノーグットである。マスコミは美談を求めたがる。これに答えるのも善し悪しである。

7 避難所対応 
 児童生徒の安否確認と避難所設営。教師が両方対応するのは困難を極めた。
    東日本大震災の時は,学校に先生方がいた。先にいた方がやるべきと判断した。避難者は続々と学校に集まって来ているのに見て見ぬふりはできない。
 最低でも,下記の準備が必要である。
  ・暖房の確保 ・避難者リストの作成 ・情報の公開 ・ペット入館の有無
 ・高齢者,障害者,乳幼児 ・ブルーシートの準備 ・椅子の準備
 ・授乳室確保  ・生活時間(起床や消灯) ・配給の順番 ・トイレ(様式)
 早い決断力と迅速な行動で,避難所を仕切っていかないと不平不満を生じさせてしまう。それでなくとも食べ物の配給では,人間の浅ましい姿を何度も見た。年寄りや子どもたちをかき分けて,食べ物にありつこうとする人たちがいた。避難所には,できるだけ早いルール(規律)の確立が必要になってくる。その指揮をするのは,やはり校長である。町や市の担当者も,災害対応に追われ,学校に目を向けるような余力はない。自力解決に向けて,校長はじめ全職員,腹をくくるしかなかった。
 最後に付記しておく。『土・日・祝日・平日の夜』に地震などが起きた場合である。学校に先生はいない。先生方が集まるまで時間を要する。そんな時,誰が主となるのか決めておくことが大切である。また,統計的に見ると,これまでの大きな地震が起きた時間帯は,学校に誰もいないときによく起きている。皆さんは,このことを知っているだろうか。

8 ガソリン探し 
 ガソリンスタンドも被災し,震災当時は,全くガソリンが手に入らなかった。「1台くらい動く車がないと困る」というので,半日待ってガソリンを10リットル(一人10リットル限定)入れに職員を向かわせた。
  高速道路のガソリンスタンドには,まだ豊富にガソリンがあるという情報を聞けば,そちらに向かわせたこともあった。

Ⅱ 学校再開編
 学校が再会した。まずしたことは,心のケアであった。 

 

1 心のケア 
 子どもの心は大きく傷ついていた。身内が津波で流されて行くのを見た児童生徒はざらにいた。避難所に来るまで,たくさんの死体を見てきた児童生徒もいた。
 本県や他県から,専門的な知識を持った多数のカウンセラーに支援に当たった。ありがたかった。しかし,男性のカウンセラーには,女子生徒は心を開かなかった。反対に,女性のカウンセラーには,女子生徒も男子生徒も心を開いた。こんなところにも注意を払う必要あることを,あとで感じた。
   心のケアは,児童生徒ばかりではない。先生方も過度のストレスを貯めていた。自分の家も被災し,家族のことも気になる。幼い子がいればなおさらである。帰宅したくとも,帰宅できない。安否確認,避難所運営などの仕事を投げ出すことはできない。
    それだけに心のダメージは相当なものである。子どもたちのために,献身的な対応しても,なかなか汲み取ってもらえない。あまりにも気の毒なことだと思う。記憶にとどめてほしい,先生だって,児童生徒と同様に,温かく優しい心のケアが必要であることを。身内に甘いと言われるかもしれないが…。

2 教科書・学用品 
 教科書は津波に流された。地震で家の下敷きになった。教科書をなくした児童生徒は数知れない。書店で購入するような少しばかり量ではない。教育委員会の指示を仰ぎながら教科書の再発行の手続きをしなければならない。何名分の教科書が必要か,国語は何冊,算数は,社会は,音楽は,時間のかかる作業である。同様に,学生服,セーラー服,運動着,必要枚数,サイズ,これも手のかかる作業である。このような仕事は,表に出ないので,一般の方々は知るよしもない。
 学用品やランドセルは,物資支援という名のもと,大量に送られてくる。また,洋服や下着,中には,使用した下着も混じっている。そのにおいも半端ではない。その中での仕分け作業も楽ではない。

3 給食 
 教科書,学用品も何とか調達できた。衣類も何とか求めることができた。「では,完全再開…」というわけには行かない。学校の再開は,給食センターの再開とリンクする。宮城県の場合は,給食センター方式ではなくて,学校の敷地内で給食をつくっているところもある。これを自校式給食という。これがあだになった。津波で学校ばかりでなく給食室が水没した。泥だらけになった。泥は人の腰あたりまで達した。汚水を含んだ泥である。これ以上汚い場所はなかった。給食室は,食べ物を提供するとこと。少しばかりの除菌・殺菌では,保健所は再開を認めなかった。当然である。
  学校の再開は,保健所の使用許可をもって本格的にスタートしたといえる。

4 避難訓練の見直し 
 東日本大震災規模の地震がもう一度来たらどうするか。「自分の命は自分で守る」ことを徹底するために,①授業中であろうが ②休み時間であろうが ③そうじ中であろうが 避難訓練を実施した。意図的に計画された避難訓練は極力回数を減らし,抜き打ち避難訓練を多く取り入れるようにした。また,真冬の避難訓練も実施した。1年生に防寒着を着せて避難するという,極めて現実的な取り組みも行ってみた。
 校長不在,教頭不在の時の避難訓練も実施した。管理職がいつもいるとは限らないことを想定しての実施である。「練習でできないのは,本番でもできない」ということを子どもたちにも理解させた上での実施である。

5 避難場所の確認 
 私の学校も,どこに逃げたらいいかを確認した。第一次避難場所は,学校の裏山へ。これは決まった。しかし,当日,雪が降っていたらどうするか。第一次避難場所にずっといるわけにはいかない。凍死してしまう。全校生徒320名が次に避難する場所,つまり,少なくとも屋根がある第二次避難場所はどこかとなる。ない。教育委員会もそこまで考えてない。地震や津波は,春や夏に来ることを祈ることしかない。

6 引き渡しは原則禁止 
 東日本大震災,当日,児童生徒を保護者に引き渡していた学校は,約8割に達する。保護者に引き渡したことによって,多くの悲劇が生まれた。保護者共々津波にのみ込まれてしまったのだ。最近の傾向としては,震度5弱もしくは震度5強以上の揺れがあった場合は,引き渡しは原則禁止を取っている学校が多い。理由は,前述の通りである。保護者が迎えに来るまで,学校でいつまでも預かる。これが一番安全だし,保護者も安心して迎えに来られる。そういう約束ごとを,事前に保護者と取り交わして置くことが多くの命を救うことになる。

7 登下校の避難対応 
 登下校中に地震・津波が発生したときの判断を徹底させた。
  今いる場所安全か? 
 【はい】は,その場を動かない。
 【いいえ】は,最寄りの安全な場所に移動。安全な場所とは,「ものが落ちてこない」「倒れてこない」「津波が来ない」ところ。簡単ではあるが,とにかく徹底して指導した。1年生にも理解しやすいように単純にした。

8 未履修対応 
 震災から約1ヶ月後に学校が再開した。その間の未履修をどう埋め合をするかが問題になった。①平日の時程+1~2時間余分に授業をする。②夏休みや冬休みを短縮する。など,とにかく子どもたちの学習に影響がでないように学校は工夫した。しかし,体育館が崩壊した学校,プールが使えなくなり水泳ができなくなった学校は,対応するにも限界があった。

9 見えない恐怖 
 東日本大震災は,地震や津波の被害だけではなかった。福島第一原子力発電所のメルトダウンによる放射能汚染もあった。福島原発からでた放射線は,風に乗って宮城県まで到達した。放射線測定器で測ると,普段の数値よりは数倍高かったが,健康には影響はないと言われた。しかし,それをどこまで信じていいものか。初めての経験だけに誰もが,疑心暗鬼となった。
 様々な噂が流れた。給食の牛乳は被爆した牛から絞られたという噂。急に,牛乳を飲む子が減った。修学旅行先が福島県会津地方にしていた学校は,軒並み,岩手県や秋田県の方に変更した。
 放射線は,無色透明,しかも,実態がないだけに,その恐怖は計り知れなかった。


09:46 | 投票する | 投票数(5)
2020/10/28

震災~学校現場から(9)

| by 教育長

【保護者との連携】

 今回,G中学校では現在の生徒の保護者,卒業生の保護者から,様々な情報の提供や制服・ジャージなどの協力をいただいた。また,津波の後の泥かきや清掃に地域の方々の支援をたくさんいただいた。
 

 また,今回の震災ではライフラインの断絶と津波警報の発令で,**市中心部から**地区へ向かう道路は通行できなくなった。そのため,自分の子どもの安否が数日間わからなかったという保護者もいた。そのため,震災後,子どもと離れられなくなった保護者も多くいた。保護者の心のケアに学校として取り組む必要があった。


 保護者に対して,様々な情報の提供が大きな支援の柱となる。保護者対象の心のケアの勉強会や安心できることを学校から様々な機会で発信していくことも保護者への支援となった。
 

 また,被災者である生徒の保護者に対して,その被災の程度に応じて様々な支援が得られる。保護者に対してその支援について知らせる事も学校が果たす大きな支援のひとつであった。                                        (G中学校)



08:19 | 投票する | 投票数(5)
2020/10/23

震災~学校現場から(8)

| by 教育長


【地域・卒業生支援】
 

 生徒の安否確認,状況把握等の活動が一段落し,いよいよ学校再開となったが,制服やカバンが流出して無くなった生徒も多かった。はじめは,私服であれ制服であれ,カバンなどもあるもので,なければ何でも良いということにしていた。
 しかし,制服を着た生徒の中に,私服の生徒がいる事を見ると,大変心が痛んだ。今回,新入生には入学式に制服を着せて出席させたい,との思いが学校にあった。卒業生や地域の方に声がけし,制服の支援を要請した。


 ところが,卒業したばかりの生徒に依頼したところ,高校の制服も製造が中止されていて,高校の入学式に中学校の制服を着て参加することになった生徒もおり,高校に入学する卒業生に支援をお願いするのは困難であると判断した。そこで,高校を卒業している卒業生に声を掛けた。結果的には多くの制服が学校に届き,生徒に貸与することができた。


 また,本校の制服作りをしていただいている業者からも早い段階で流失した制服の支援の申し出があり,対象の生徒へ連絡を行った。学校独自の被災証明書を発行し,それを持って採寸をしていただき,支援をして頂いた。        (F中学校)

 


【保護者との連携】


 今回,F中学校では現在の生徒の保護者,卒業生の保護者から,様々な情報の提供や制服・ジャージなどの協力をいただいた。また,津波の後の泥かきや清掃に地域の方々の支援をたくさんいただいた。


 また,今回の震災ではライフラインの断絶と津波警報の発令で,**市中心部から**地区へ向かう道路は通行できなくなった。そのため,自分の子どもの安否が数日間わからなかったという保護者もいた。そのため,震災後,子どもと離れられなくなった保護者も多くいた。保護者の心のケアに学校として取り組む必要があった。


 保護者に対して,様々な情報の提供が大きな支援の柱となる。保護者対象の心のケアの勉強会や安心できることを学校から様々な機会で発信していくことも保護者への支援となった。


 また,被災者である生徒の保護者に対して,その被災の程度に応じて様々な支援が得られる。保護者に対してその支援について知らせる事も学校が果たす大きな支援のひとつであった。                                        (F中学校)

 




08:10 | 投票する | 投票数(4)
2020/10/21

震災~学校現場から(7)

| by 教育長

【授業再開まで】


(1) 授業開始まで
 ① ケア担当の任命
 心のケアを中心となって計画,立案する担当者を決めておく必要がある。養護教諭や相談担当の職員がふさわしいと思うが,SCとの連絡調整や校長・教頭との連絡調整等でかなり負担が大きくなる。
ケア担当を中心に学校行事の再検討,ケアプランの作成,実行とSCとのコンサルテーション,教職員への周知などを行う。

 ② 登校日の設定
 臨時休業を続けていると,児童・生徒はそれぞれ家族単位で生活することとなる。また,避難所では起床,就寝の時間が決まっていて,プライバシーもあまり無く,生徒にとってはストレスがたまる状況である。学校へ登校させることで,生活のリズムの確立と日常生活を取り戻すことができ,安心感を与えることができる。特に児童・生徒同士のふれあいで,お互いの無事の確認とお互いに辛い時期について話をすることでお互いのケアにつながっていく。


 1日だけの登校日ではなく,出来るだけ多くの登校日を設定して児童・生徒が一緒に活動できるプログラムを用意することも良い。中学校であれば,部活動を出来るだけ早く開始することも考えられる。


  バラバラで,孤立して生活している児童・生徒を学校という場に集合させ,そこで「みんなと一緒にいる」というつながりを実感させることが大切である。できるだけ早い時期に登校日を設定することが求められる。



③ 電話連絡・家庭訪問
 第二次安否確認で対面での調査を行った後,家庭訪問や電話連絡を通じて児童・生徒へ安心感を与える取り組みが重要である。児童・生徒の中には孤立感を深めている者もおり,担任からの電話や訪問が児童・生徒に「先生は自分を気に掛けてくれている」と言う実感が大切である。今回玉浦中学校では,3月に修了式・離任式を実施できなかったので,4月11日に着任式を行う事とし,そこで担任発表を行うこととした。そこまでは旧学年での対応とし,11日以降は新学年での対応とした。4月4日~8日までの間に担任が家庭訪問し,11日の着任式と担任発表について知らせるとともに,生徒の今の状況の把握と相談に乗ることで,学校との結びつきを強めた。



【授業開始】

 
 ① つながりを実感する取り組み
 玉浦中学校では,入学式後2週間目に学年でのスポーツ大会を実施した。これは,学級づくりと子どもたちの絆作りを目的としたものである。また,歌を歌うことがケアにつながるとのアドバイスのもと,合唱コンクールを7月に実施することとした。
 合唱時の呼吸によるストレスケアと,クラスの連帯が自分一人ではないことを実感 させることがねらいである。


 ② 健康観察の強化,派遣SC・本校SCとの連携
  *健康観察記録について
 健康観察を継続して行い,生徒の心理状況の把握をしていくことが必要と考え,5月中は毎週水曜日の朝の会で,6月からは毎月1日に生徒本人が健康観察記録表を記入し,担任,養護教諭,SCに見てもらう事とした。
 活用方法
 ・ 朝,健康観察をしたならば,まず,担任がクラスの生徒の状況を把握する。
 ・ 担任が確認した後,健康観察表を養護教諭に提出する。
 ・ 養護教諭は,全クラスの結果を見て,心配な生徒をピックアップする。
   また,全校の傾向を集計し,職員へ知らせる。
 ・ 派遣チームのSCに,担当のクラスの健康観察記録を参考としてもらう。


 *派遣 SCチームの活用について
 6週間に6人のカウンセラーが来るところから,継続的なカウンセリングは本校のSCにお願いし,派遣のカウンセラーには1クラス全員の面談をしてもらうこととした。相談を通して生徒の心を軽くしてもらうと同時に,担任からの声掛けの依頼や本校SCや医療への橋渡しなどの見立てと,担任への今後の心のケアに対するアドバイスを行ってもらった。生徒の面談は授業中に行った。先生方に授業中の呼び出しに抵抗があったが,初めの一週間が終わり,面談の効果が確かめられると、進んで面談をお願いするようになった。


  また,派遣SCには一人一人の生徒に対するカルテを作成してもらい,その後のケアに役立てている。さらに,本校SCの来校日である水曜日には,SC同士の情報交換をお願いしている。


 *学校として気にかけておくこと
 今回は,学校が再開されると,思いの外生徒は元気だ,という雰囲気が教職員の中に広がっていた。しかし,生徒全員が十分に立ち直っているわけではなく,見た目の元気さに目を奪われ,注意を怠ってはいけない,とSCから繰り返し助言をいただいた。確かに,6月頃,遠くで友達同士が津波の話をしているのを聞いて,パニックになった生徒もいた。また,小さな余震でも,表情が緊張する生徒が多数見られてた。生徒一人一人に心のダメージに違いがあると同時に,回復にも個人差がある事を念頭に置いて,一人一人に寄り添ったケアをしていくことが必要である事を感じている。                                    (D中学校)



09:35 | 投票する | 投票数(3)
2020/10/15

震災~学校現場から(6)

| by 教育長

【児童生徒のケア】

 今回,**中学校では,生徒のケアを含めた次のページにある「時期と段階に応じた心のケア」,「心のケアプラン」をもとに,1年間を見通した「学校再開プログラム」を作成し,そのプログラムに沿って生徒のケアにあたってきた。


 このプログラムを策定するときには,複数の臨床心理士よりアドバイスをいただき,素人の思いつきで生徒たちの対応をすることがないよう,心を砕いた。

 養護教諭を中心として心のケア対応を実施しており,折々にスクールカウンセラー(SC)に報告と相談をし,次の取り組みへのアドバイスをもらっている。

 
 今回**中学校では,3月に修了式・離任式を実施できなかったので,4月11日に着任式を行う事とし,そこで担任発表を行った。4月11日までは旧学年での対応とし,11日以降は新学年での対応とした。

 4月4日~8日までの間に旧担任が家庭訪問し,11日の着任式と担任発表について知らせるとともに,生徒の今の状況の把握と相談に乗ることで,学校との結びつきを強めた。

 
 また,生徒と主に関わるのが担任であるので,学校を再開するまでに1度,学校が再開してから1ヶ月以内にもう1度,合計2回生徒の心のケアに対しての校内研修を持った。さらに,生徒の心のケアには家庭の協力が欠かせないために,学校再開後3週間目に保護者対象の心のケア研修会も開催した。             (K中学校)


 


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