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震災関係のデータを整理していましたら、何年か前の原稿が出てきましたので、当時の様子がどのような状況だったのか、皆さんに知ってもらいたく掲載いたしました。自分で書いたものですが、改めて読み返すと、いかにすさまじい状況だったが思い出されました。
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東日本大震災 その時とその後
Ⅰ はじめに
東日本大震災時の状況を記したものである。
これが国内観測史上最大級となるマグニチュード8.8の恐ろしさである。
懐中電灯のあかりしかなかった。
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午後2時46分。地震発生。地震発生と同時に校内放送のスイッチを入れ,緊急放送をいれた。「地震発生,児童はすぐに・・(ブツっ!)・・・。」発生からわずか10秒で,学校の放送施設は使用不能になった。地震発生から30秒で,立っていられないほどの揺れに増幅した。放送と同時に児童は訓練通り,机の下にもぐり両手で机の脚をしっかりつかみ,踏ん張っていた。1分過ぎても地震は収まるどころか,さらに増幅し,校舎が悲鳴をあげた。児童たちの中には,恐怖に泣き出す子もいた。
地震発生から2分後,まだ揺れは続いた。結局3分以上揺れてようやく収まった。あたりは,戸棚や本箱から落下したものが散乱した。職員室にいた職員で,校庭と体育館を確認し,校長が2分後には校庭への避難を決定した。放送機器が使えないので,ハンドマイクを片手に中庭から校舎に向かって,避難指示を伝えた。声が聞こえにくい教室には,廊下からハンドマイクで指示を出した。一斉に避難が始まる。折しも外は今にも雪が降り出しそうな空模様だった。
校庭の避難場所に移動し,点呼確認している間に,雪が降り始めた。体育館は,ステージ上の壁板が数カ所落下していた。急いで,落下物を片付け,降りしきる雪の中で子どもたちを体育館に二次避難させることにした。町の防災無線が,「大津波警報発令,沿岸部に6メートルを超える大津波が予想されます。急いで高台に避難してください。」と地域住民に知らせていた。
学校は,幸い授業中であったが,6校時ということで,1・2年生は半数が帰宅途中だった。途中,中学校や民家に留め置かれ,小学校へ戻ってくる児童もいた。放課後に児童館でお世話になっている1・2年生も合流してきた。直後,防災無線で津波の高さが10メート以上に訂正され,帰宅した子どもたちのことが気になった。しかし,今は目の前にいる子どもたちの安全を守ることで精一杯だった。後片付けをした体育館の後方に児童を整列させ,保護者への引き渡しが始まった。各担任が名簿をチェックしながら,一人一人引き渡した。
一方で,地域住民も続々と避難してきたため担任以外の二人の職員で,校庭の駐車場誘導を行った。引き渡し途中ではあったが,並行して体育館の前方にブルーシートを敷き避難してくる人を受け入れたり,座りきれない人のためにパイプいすを用意したり,体育館内でも臨機応変に対応したりした。児童の引き渡しが続く中,沿岸部には津波の第1波が押し寄せていた。(後で知る)壊滅的な被害。津波を目の当たりにした人々も体育館に避難してきた。夕暮れが迫り,体育館にはわずかな懐中電灯のあかりしかなかった。 ****************************************
Ⅱ 地震直後編
解決しなければならない問題は,山ほどあった。
まずしたことは,児童の生徒の安否確認であった。
1 児童生徒の安否確認
通信網が切断した中での児童生徒の安否確認は困難をきたした。最後の児童を確認するまで一週間近くかかった学校もあった。東日本大震災時は,津波の被害もあって車が使えず,クラスの子ども,約30名の家を一軒一軒歩いて安否を確認した先生もいた。二次災害のことを考えると,一人よりは複数でと考えるのが普通であるが,学校は避難所となっており,とても人数など避ける状態にはなかった。このような話は,なかなか表には出ない話だと思う。
2 寒さ対策
東日本大震災の時は3月で小雪が舞っていた。しかも,津波で体が濡れていた。寒さが身にしみた。ところが,学校に毛布を大量に備蓄している学校はほとんどなかった。暖を取るためのストーブも石油ファンヒーター主流で,電源がなければ全く役に立たなかった。寒さに堪えきれず教室のカーテンや新聞紙をまとって暖を取った人たちもいた。そのため学校からカーテンがすべてなくなった学校もあると聞く。
地震は温暖な季節にやってくるとは限らない。避難所となっている学校であれば,常に最悪の事態,つまり厳寒の真冬のことも考えて,毛布や電源を使わないストーブなどを十分以上に用意しておく必要がある。
3 食料対策
批判覚悟で記述するが,3日間くらい食べ物を食べなくても人は死なない。しかし,水だけは必要である。その水が,水道管破裂で飲めない。今でこそ学校に水のペットボトルが備蓄されているが,当時はペットボトル1本もなかった。水が有る無しは,生きる上で欠かせないものである。
4 睡眠対策
東日本大震災を経験して分かったことがある。人間が衰弱して行く大きな原因は,睡眠にある。食べ物がとれないときではない。寒さで眠れない。他人のペットがうるさくて眠れない。避難所がうるさくて眠れない。などなど。様々な事情で睡眠時間が削られていく。それに比例するかのように,人間は衰弱していく。特に,お年寄りや乳幼児がそうなってしまう確率が高い。
これも批判覚悟で記述するが,3日間くらい食べ物を食べなくても人は死なない。
しかし,3日間十分に寝れなければ,確実に死につながる。
5 情報伝達
災害時は,特に,教育委員会との連絡は密になる。児童生徒の安否,避難者数,被害状況,食糧事情などなど,常に,報告を求められる。しかし,電話は使えない。携帯も使えない。津波で車も使えない。学校から十数キロ離れた教育委員会まで,徒歩また自転車で報告に走った学校もあった。電話や携帯の代わりに,防災無線が支給されていた市町村もあったが「自分のところは大丈夫」ということで,誰一人使い方が分からなかった学校もあった。
6 マスコミ対応
時間が経過するごとにマスコミからの取材が多くなる。震災直後は,電話対応ではなく,面談による取材が行われる。多くの時間が費やされる。窓口を一つにしてないと誤った情報が流れてしまう。例えば,死亡者数。一度流れた情報は訂正がきかない。また「~と思う」というような個人の見解を述べない。個人のプラバシーにかかる情報の提供もノーグットである。マスコミは美談を求めたがる。これに答えるのも善し悪しである。
7 避難所対応
児童生徒の安否確認と避難所設営。教師が両方対応するのは困難を極めた。
東日本大震災の時は,学校に先生方がいた。先にいた方がやるべきと判断した。避難者は続々と学校に集まって来ているのに見て見ぬふりはできない。
最低でも,下記の準備が必要である。
・暖房の確保 ・避難者リストの作成 ・情報の公開 ・ペット入館の有無
・高齢者,障害者,乳幼児 ・ブルーシートの準備 ・椅子の準備
・授乳室確保 ・生活時間(起床や消灯) ・配給の順番 ・トイレ(様式)
早い決断力と迅速な行動で,避難所を仕切っていかないと不平不満を生じさせてしまう。それでなくとも食べ物の配給では,人間の浅ましい姿を何度も見た。年寄りや子どもたちをかき分けて,食べ物にありつこうとする人たちがいた。避難所には,できるだけ早いルール(規律)の確立が必要になってくる。その指揮をするのは,やはり校長である。町や市の担当者も,災害対応に追われ,学校に目を向けるような余力はない。自力解決に向けて,校長はじめ全職員,腹をくくるしかなかった。
最後に付記しておく。『土・日・祝日・平日の夜』に地震などが起きた場合である。学校に先生はいない。先生方が集まるまで時間を要する。そんな時,誰が主となるのか決めておくことが大切である。また,統計的に見ると,これまでの大きな地震が起きた時間帯は,学校に誰もいないときによく起きている。皆さんは,このことを知っているだろうか。
8 ガソリン探し
ガソリンスタンドも被災し,震災当時は,全くガソリンが手に入らなかった。「1台くらい動く車がないと困る」というので,半日待ってガソリンを10リットル(一人10リットル限定)入れに職員を向かわせた。
高速道路のガソリンスタンドには,まだ豊富にガソリンがあるという情報を聞けば,そちらに向かわせたこともあった。
Ⅱ 学校再開編
学校が再会した。まずしたことは,心のケアであった。
1 心のケア
子どもの心は大きく傷ついていた。身内が津波で流されて行くのを見た児童生徒はざらにいた。避難所に来るまで,たくさんの死体を見てきた児童生徒もいた。
本県や他県から,専門的な知識を持った多数のカウンセラーに支援に当たった。ありがたかった。しかし,男性のカウンセラーには,女子生徒は心を開かなかった。反対に,女性のカウンセラーには,女子生徒も男子生徒も心を開いた。こんなところにも注意を払う必要あることを,あとで感じた。
心のケアは,児童生徒ばかりではない。先生方も過度のストレスを貯めていた。自分の家も被災し,家族のことも気になる。幼い子がいればなおさらである。帰宅したくとも,帰宅できない。安否確認,避難所運営などの仕事を投げ出すことはできない。
それだけに心のダメージは相当なものである。子どもたちのために,献身的な対応しても,なかなか汲み取ってもらえない。あまりにも気の毒なことだと思う。記憶にとどめてほしい,先生だって,児童生徒と同様に,温かく優しい心のケアが必要であることを。身内に甘いと言われるかもしれないが…。
2 教科書・学用品
教科書は津波に流された。地震で家の下敷きになった。教科書をなくした児童生徒は数知れない。書店で購入するような少しばかり量ではない。教育委員会の指示を仰ぎながら教科書の再発行の手続きをしなければならない。何名分の教科書が必要か,国語は何冊,算数は,社会は,音楽は,時間のかかる作業である。同様に,学生服,セーラー服,運動着,必要枚数,サイズ,これも手のかかる作業である。このような仕事は,表に出ないので,一般の方々は知るよしもない。
学用品やランドセルは,物資支援という名のもと,大量に送られてくる。また,洋服や下着,中には,使用した下着も混じっている。そのにおいも半端ではない。その中での仕分け作業も楽ではない。
3 給食
教科書,学用品も何とか調達できた。衣類も何とか求めることができた。「では,完全再開…」というわけには行かない。学校の再開は,給食センターの再開とリンクする。宮城県の場合は,給食センター方式ではなくて,学校の敷地内で給食をつくっているところもある。これを自校式給食という。これがあだになった。津波で学校ばかりでなく給食室が水没した。泥だらけになった。泥は人の腰あたりまで達した。汚水を含んだ泥である。これ以上汚い場所はなかった。給食室は,食べ物を提供するとこと。少しばかりの除菌・殺菌では,保健所は再開を認めなかった。当然である。
学校の再開は,保健所の使用許可をもって本格的にスタートしたといえる。
4 避難訓練の見直し
東日本大震災規模の地震がもう一度来たらどうするか。「自分の命は自分で守る」ことを徹底するために,①授業中であろうが ②休み時間であろうが ③そうじ中であろうが 避難訓練を実施した。意図的に計画された避難訓練は極力回数を減らし,抜き打ち避難訓練を多く取り入れるようにした。また,真冬の避難訓練も実施した。1年生に防寒着を着せて避難するという,極めて現実的な取り組みも行ってみた。
校長不在,教頭不在の時の避難訓練も実施した。管理職がいつもいるとは限らないことを想定しての実施である。「練習でできないのは,本番でもできない」ということを子どもたちにも理解させた上での実施である。
5 避難場所の確認
私の学校も,どこに逃げたらいいかを確認した。第一次避難場所は,学校の裏山へ。これは決まった。しかし,当日,雪が降っていたらどうするか。第一次避難場所にずっといるわけにはいかない。凍死してしまう。全校生徒320名が次に避難する場所,つまり,少なくとも屋根がある第二次避難場所はどこかとなる。ない。教育委員会もそこまで考えてない。地震や津波は,春や夏に来ることを祈ることしかない。
6 引き渡しは原則禁止
東日本大震災,当日,児童生徒を保護者に引き渡していた学校は,約8割に達する。保護者に引き渡したことによって,多くの悲劇が生まれた。保護者共々津波にのみ込まれてしまったのだ。最近の傾向としては,震度5弱もしくは震度5強以上の揺れがあった場合は,引き渡しは原則禁止を取っている学校が多い。理由は,前述の通りである。保護者が迎えに来るまで,学校でいつまでも預かる。これが一番安全だし,保護者も安心して迎えに来られる。そういう約束ごとを,事前に保護者と取り交わして置くことが多くの命を救うことになる。
7 登下校の避難対応
登下校中に地震・津波が発生したときの判断を徹底させた。
今いる場所安全か?
【はい】は,その場を動かない。
【いいえ】は,最寄りの安全な場所に移動。安全な場所とは,「ものが落ちてこない」「倒れてこない」「津波が来ない」ところ。簡単ではあるが,とにかく徹底して指導した。1年生にも理解しやすいように単純にした。
8 未履修対応
震災から約1ヶ月後に学校が再開した。その間の未履修をどう埋め合をするかが問題になった。①平日の時程+1~2時間余分に授業をする。②夏休みや冬休みを短縮する。など,とにかく子どもたちの学習に影響がでないように学校は工夫した。しかし,体育館が崩壊した学校,プールが使えなくなり水泳ができなくなった学校は,対応するにも限界があった。
9 見えない恐怖
東日本大震災は,地震や津波の被害だけではなかった。福島第一原子力発電所のメルトダウンによる放射能汚染もあった。福島原発からでた放射線は,風に乗って宮城県まで到達した。放射線測定器で測ると,普段の数値よりは数倍高かったが,健康には影響はないと言われた。しかし,それをどこまで信じていいものか。初めての経験だけに誰もが,疑心暗鬼となった。
様々な噂が流れた。給食の牛乳は被爆した牛から絞られたという噂。急に,牛乳を飲む子が減った。修学旅行先が福島県会津地方にしていた学校は,軒並み,岩手県や秋田県の方に変更した。
放射線は,無色透明,しかも,実態がないだけに,その恐怖は計り知れなかった。